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「亀新フィーバー」の「亀」。(「新」は新庄) MBS・GAORA解説者。 北海道移転直後はGAORA日本ハム戦では比較的頻繁に解説をしていた。 ここ近年は、札幌ドームのVS阪神戦に、いつもの面々に加わる形(=阪神戦のみ、解説が2人居る)解説として「漏れなく」登場する。 しかし、現役時代を全く髣髴とさせないその太ましい姿から、放送席で喋る姿が「すすきのに遊びに来た、大阪のおっさん」にしか見えない。 解説内容は、コテコテの関西風味。
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形式 番号 要検 全検 備考 キハ120 7 8 11 12 13 14 15 16 301 302 303 304 305 306 最終更新 H23/1/6 米トウ47
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•『国文学 解釈と鑑賞 1998年3月号』、至文堂、1998年 •アラン・ゲイ「物語と環境保護主義の倫理および政治」『環境思想・教育研究』創刊号、環境思想・教育研究会、2007年 •オギュスタン・ベルク『風土の日本 自然と文化の通態』筑摩書房、1988年 •伊東俊太郎編『日本人の自然観』河出書房新社、1995年 •下向井龍彦『武士の成長と院政』講談社、2001年 •笠松幸一、カール・アントン・シュプレンガルト、亀山純生『現代環境思想の展開 21世紀の自然観を創る』新泉社、2004年 •関敬吾編『日本昔話大成』第7巻、角川書店、1979年 •丸山顕徳『日本霊異記説話の研究』桜楓社、1992年 •鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』ちくま新書、1996年 •亀山純生「『沙石集』に見る中世正統派仏教の民衆布教の方法と論理 仏教の民衆生活論的意義の検討のために」『人間と社会』第10号、東京農工大学、1999年 •亀山純生「自然開発と殺生禁断思想 環境問題における日本の仏教的自然観の二面性」『人間と社会』第8号、東京農工大学、1997年 •吉田傑俊・尾関周二・渡辺憲正編『ハーバマスを読む』大月書店、1995年 •吉田靖雄『日本古代の菩薩と民衆』吉川弘文館、1988年 •原田信男『歴史の中の米と肉 食物と天皇・差別』平凡社、1993年 •五味文彦『殺生と信仰―武士を探る』角川書店、1998年 •五味文彦『大系日本の歴史5鎌倉と京』小学館、1988年 •国立歴史民俗博物館[編]歴博フォーラム『動物と人間の文化誌』吉川弘文館、1997年 •黒田俊雄『日本中世の社会と宗教』岩波書店、1990年 •佐々木宏幹『神と仏と日本人』吉川弘文館、1996年 •佐々木宏幹『聖と呪力』青弓社、1989年、 •佐々木宏幹『仏と霊の人類学』春秋社、1993年、 •佐藤正英編『新註歎異抄』朝日文庫、1994年 •阪倉篤義・本田義憲・川端善明[校注]『新潮日本古典集成(第16回)今昔物語集 本朝世俗部 一』新潮社、1978年 •阪倉篤義・本田義憲・川端善明[校注]『新潮日本古典集成(第29回)今昔物語集 本朝世俗部 二』新潮社、1979年 •阪倉篤義・本田義憲・川端善明[校注]『新潮日本古典集成(第43回)今昔物語集 本朝世俗部 三』新潮社、1981年 •阪倉篤義・本田義憲・川端善明[校注]『新潮日本古典集成(第64回)今昔物語集 本朝世俗部 四』新潮社、1984年 •出雲路修『説話集の世界』岩波書店、1988年 •小松和彦『説話の宇宙』人文書院、1987年 •小泉道[校注]『新潮日本古典集成(第67回)日本霊異記』新潮社、1984年 •小峯和明、篠川賢編『日本霊異記を読む』吉川弘文館、2004年 •小峯和明編『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想社、2003年 •小峯和明編『今昔物語集を読む』吉川弘文館、2008年 •上井久義『民俗社会人類学』創元社、1973年 •森岡正博『生命観を問いなおす』ちくま新書、1994年 •森龍吉『親鸞 その思想史』三一書房、1961年 •盛本昌広『草と木が語る日本の中世』岩波書店、2012年 •西郷信綱『神話と国家』平凡社、1977年 •千葉徳爾『狩猟伝承研究』風間書房、1969年 •相良亨『日本の思想 理・自然・道・天・心・伝統』ぺりかん社、1989年 •大隈和雄編『因果と輪廻』春秋社、1986年 •池上洵一『池上洵一著作集第四巻 説話とその周辺』和泉書院、2008年 •竹内整一『「おのずから」と「みずから」 日本思想の基層』春秋社、2004年 •中根千絵『今昔物語集の表現と背景』三弥井書店、2000年 •中村生雄『祭祀と供犠 日本人の自然観・動物観』法蔵館、2001年 •中村生雄『日本の神』平凡社、1995年 •中村生雄『日本の神と王権』法蔵館、1994年 •中村生雄・三浦佑之『人と動物の日本史4 信仰のなかの動物たち』吉川弘文館、2009年 •中村生雄・三浦佑之・赤坂憲雄編『狩猟と供犠の文化誌』森話社、2007年 •中村禎里『日本人の動物観―変身譚の歴史』海嶋社、1984年 •中澤克昭『中世の武力と城郭』吉川弘文館、1999年 •渡邊綱也[校注]『日本古典文学大系85 沙石集』岩波書店、1966年 •土屋有里子『『沙石集』諸本の成立と展開』、笠間書院、2011年 •梅原猛『「森の思想」が人類を救う』小学館、1991年 •尾関周二『環境思想と人間学の革新』青木書店、2007年 •尾関周二『現代コミュニケーションと共生・共同』青木書店、1995年 •平成17年度~平成20年度 日本学術振興会科学研究費補助金 研究成果報告書『風土的環境倫理の可能性と日本的自然観の意義』 •末木文美士『仏典を読む―死から始まる仏教史―』新潮社、2009年 •野家啓一『物語の哲学』岩波書店、2005年 •歴史学研究会・日本史研究会編『講座 日本歴史 3 中世1』東京大学出版会、1984年 •脇田晴子、アンヌ・ブッシイ編『アイデンティティ・周縁・媒介』吉川弘文館、2000年 •佛教文学研究会編『佛教文学研究(六)』法蔵館、1968年
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農本主義の議論の特徴は、産業としての農業を越えた「農」という表現を用い、そこに農耕民族としての伝統的生活体系や文化価値観念の意を含ませることにより、ある種の暖昧さを創出し、そこにあらゆる矛盾を解消させてゆこうとする点にある様に思える。それは同時に、曖昧性を挺子に、ロゴス的なものをパトス的なものへと変換していく機能を果たす。そのひとつの表れとして、本来、農業を擁護する議論であるにもかかわらず、農業の衰退が激烈を極めれば極めるほど、農本主義は現実世界での農業政策的意味を喪失し、農の価値を一つの幻想の世界に直結させるようになる。さらに、厄介なことに、そこでは、近年の「農業見直し論」にあるような原始礼賛や自然への回帰が強く希求され、表出される。 「「農業見直し論」の可能性一農本主義の理解を手懸りに-」穴見慎一より部分抜粋 尾関周二編『環境思想・教育研究』第2号, 環境思想・教育研究会, 2008より ☆課題.1 綱澤満昭『農の思想と日本近代』をもとに日本の農本主義の歴史をまとめること。 そのなかで宮澤賢治を位置づけることも可能であるし、農業政策とも重ねられるはずである。 いずれにせよ、亀山研は(というか農工大における思想系全般は)傍から見れば「農本主義系」だろうし、そういう見立てを否定するにせよ、受け入れるにせよ、手玉にとるにせよ、その“ラベル”の構造を知っておくことは有益であるように思える。 ☆課題.2 梅棹忠夫『文明の生態史観』から、川勝平太『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考』を経由した、江戸プッシュのムーブメントは、農本主義と関わりが深い。江戸プッシュとはどういうことか(ちなみにこれは太田の造語)。江戸時代の徳川幕府の統治システムが『前近代的遺制』ではなく、効率的で、超近代的な可能性を含んだものであった、というような歴史評価の逆転。もっといえば、「徳川時代の統治システムこそ、21世紀のグローバル・スタンダードになるかもしれない」という視点のこと。エコロジーとからめて、亀山『環境倫理と風土』でもその可能性が論じられている。 どういうことか? 日本史研究は一貫して『農本主義的』な発想に立っており、「すべての歴史的変化は農業生産の現場から始まる」という暗黙の前提がある(実証的な歴史研究は荘園制度や小作制度など農業生産様式とそれにかかわる法制の研究に集中している)。しかし、日本には農業生産者だけしかいなかったわけではない(網野史観がもたらすまで、この視点は自明ではなかった)。」それをふまえて、「パックス・トクガワーナ説」は展開されている。
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■要旨 1.疎外論は、私的privateな事情について論じたものであり、公的publicな事情について論じたものではない。 2.「疎外の克服」は私情にすぎない。しかし、私情であるところの「疎外の克服」を、現実的には公道であるかのように見立てることはできる。 3.〈私情を公道として見立てること〉もまた私情である。だが、集団の秩序を維持するのはこの私情である。それは平時ではなく、むしろ その集団が没落し諸価値が紊乱しつつあるときに、自敬や誇り、高貴という形で〈我々が本来そのようであるべき〉と志向された秩序を維持する動機となる。 4.この〈〈私情としての秩序〉の維持を志向する私情〉は、〈先駆的な罪責感〉によって駆動する。 <疎外をめぐる哲学史的推移 私家版> ※詳細は亀山純生『人間と価値』(1989)第三章、第四章を参照 『旧約聖書』エデンからの追放……「人間が主体的に活動することが逆に本来の人間性と人間にとって根源的価値を有するものを失い、人間の消滅を結果するという逆説」。 人間活動の逆説性を明確に近代社会、近代文明と結びつけて提示したのはルソー(1712-1778)の『人間不平等起源論』(1755)。ルソーは人間の本来のあり方を未開の自然人のあり方(「自然状態」)におく。所有制・文明と社会の進歩が人間の対立と人間性の否定、ないし非人間的状態を生みだしたという視座の提供。 ヘーゲル(1770-1831)。疎外・外化を人間の精神的活動の発展過程の論理として展開。主体(精神としての)形成の論理。[詳細略。論文化・発表の際に補完すること] ←まとめ…疎外とは、出発状況である直接的な(無媒介的な、抽象的な、”もやもやした”)統一性が否定されることによって生じる対自態のことであり、直接性が止揚され、外化された、つまり一時的に他在化した段階のことである。 フォイエルバッハ(1804-1872)は主体を現実的な感性的存在と見る立場から、ヘーゲルと権威的キリスト教に反駁。 フォイエルバッハにおいて疎外とは「自己の他者」が自己を支配する という現象として捉えられる。この理解がその後の疎外の思想の原形態となっていくとともに、意識(=哲学)の改革が疎外の克服となるという解決方法 の点でもその後の疎外論に一つの方向をのこした。 ←フォイエルバッハ以降(ヘーゲル左派)の用法では、疎外という概念は、本来的ではない状態、本来の対象化が正常におこなわれない状態を表現するのに使われている 。ヘーゲルにおいては経験の自己形成の論理であった弁証法の論理は、哲学の論理というより近代批判・文化批判の方法として適用されることとなる。疎外論は、ヘーゲルの段階にあっては公的な性格づけに留まらない。 ヘーゲルの弁証法の論理の最初の継承が「哲学という学問領域がどのように社会の構造を分析できるか、いかに現実の社会の根本的な改革にかかわりうるか?」という問いを通じてなされたのは、なぜか? マルクス(1818-1883)は疎外の現象を、近代市民社会における私有財産と自由競争下における労働のなかに見いだす。彼はこの疎外が経済の面では貨幣・経済的価値という形態となり(価値形態論)、政治面では公民と市民との分離として人間の自己疎外をひきおこすなどさまざまな側面に現われることを分析し、さらにこの疎外の構造を資本主義社会における労働の疎外という、階級的な疎外として捉えなおす。後に物象化論として展開。 ■要旨補遺 疎外aliennation, Entfremdungを巡るヘーゲル(1770-1831)、フォイエルバッハ(1804-1872)、マルクス(1818-1883)らの思想的営為は、それぞれ社会哲学的な観点を異にしているが、しかしその根底には、ある一つの共通した構図があるように思われる。つまり、〈人間がそこから疎外されている本来の自己〉というものに対する理解の点で、それらの主張の根底には、近代が失った人間の自然への根源的な帰属の意識をとりもどそうとする願望があるように思われる。この願望は、ヘーゲルから、後述する亀山の議論まで[中継点としてフォイエルバッハとマルクスしか知らないが、他のアドルノ(1903-1969)などは??]を通じて、この根底にはシェリングの自然観にかかわりながら形成されている。[←引用等を含めて要検証] もちろん、彼らがシェリングのように人間の知識形成の機能を、自然への帰属性にすっかり解消するような見方をしているわけではない。[要引用]そしてそのような見方をするべきでもない。なぜなら自然への帰属性に人間の知性のすべてが解消されるという図式を採用すれば、この帰属性を承認することができなくなるからだ。 「疎外」を(局所的・非斉一的な)私情とする立場からは、「疎外の克服」は(大域的・斉一的な)正義とされない。だが、まさに疎外の克服を正義の実行であるかのように振舞うことは、その振る舞いの限界が少なからず自覚されているうえで、積極的な意義をもつ。 例えば里山に対する私たちの情動的な愛着と賞賛の念をめぐる美的ないしは倫理的な価値付けによって、〈私たちが本来そのようであるべき〉像を析出することは可能である。そのような物語の構築作業には少なからぬ現代的意義もある。しかし私としては、そのような美的で倫理的な考察がもつ重要性を否定することなく、その作業からは距離をおくつもりである。 地理的・歴史的にそれぞれ異なる〈私情としての秩序〉に具体的内容・イメージを換装するのが、亀山的文脈での「風土」である。風土生成の三契機、 a.生活的自然(地域の人々が生活の中で関わる自然・生活活動の対象としての自然) b.共有文化・共同関係(地域の人々が共有する文化と、その中で人々の共同・つながり) c.人々と生活的自然との身体的関わり これらに基づいた〈民俗誌的偏見〉にどのような形で私たちが深く恩恵を受けているかの把握なしには、〈〈私情としての秩序〉の維持を志向する私情〉もまた駆動しえない。 このことは本論における私情one’s own feelingsと欲望desireの語義の差異を示す。 後者において、これではない何かが自身を完全に満たすと信じてモノを買っては棄てること、ここではないどこかに自身にとっての最適の仕事があると信じて転職を繰り返すこと、あなたではない誰かが自身にとって最適の恋人であると信じて恋愛を繰り返すことは是認される。しかし、どれほど購買し、消費し、飽き、廃棄したところで、眼前の〈これ/ここ/あなた〉を評価しないことを前提とする欲望は原理的に充たされることがない。 この欲望の不快をさらに強く新しい刺激によって鈍磨させうる点において、「都市生活」は批判の対象となる。[都市型生活の批判点については熟考すること。なぜなら筆者は生来の都市生活者であり、本論もまた都市生活の只なかで書かれたものであるから] 前者はその不快の後で訪れるものである。自身が紛れもなく自身に固有のものとする、覇気も、野心も、嗜好も、感性も、欲望も、向上心も、直接的にあるいは抑圧的に「風土」の刻印を帯びていること――しかしそれは同時に紛れもない私秘的な事柄であること――を含めて、〈私情〉という語は用いられる。 [〈私情〉より文脈的に適切な語彙があれば、置換すること。儒教思想の色合いの濃い〈公道〉も同様。毎日何万人もの人が行き交うエトス(通いなれた道;倫理)というイメージは込めたい] 「共同性欲求と自己保存欲求とは相互媒介的なものとして、ほんらい、相補的共存の関係にある。にもかかわらず、現実には個人の自己保存欲求と共同性欲求は対立している」という乖離を理解するために亀山(1989)は「疎外」概念を用いる 〈〈私情としての秩序〉の維持を志向する私情〉を駆動させるのはなぜ<先駆的な罪責感>なのか。 ヘーゲルの弁証法の論理を、哲学がいかに社会の根本的改革にかかわりうるか、という課題意識として展開したフォイエルバッハは陶磁器工場を経営する女性と結婚して”花と妻を愛する生活”を送っていたし(後に工場は破産するが)、マルクスはもともとライン川付近のブルジョワの出身でライン新聞の主筆だった(『資本論』執筆時は職を辞してエンゲルス宅で家族もろとも居候していたが)。いずれにせよ、彼らは「持たざる者」ではなく「あらかじめ持つ者」だった。 これを高貴なるものの義務noblesse obligeと言い換えても良い。なぜ「高貴」という語彙が用いられるのか。「野蛮」への退行を阻止するために。個人の原子化、集団のゲットー化の結果により、人々が互いに同質な者たちだけから成る閉鎖的集団へと分離し、敵意をもつ小集団がはびこるのを防ぐために。 ここで重要となる概念が「排他性exclusivity」である。環境倫理学における排他性の問題性については、ノートンら環境プラグマティストによるキャリコット批判を扱った太田の唯研発表「環境倫理学における生態学の位置づけの検討―B.Nortonの「収束仮説」批判を中心に―」を参照のこと。 「あらかじめ持つことの負債」については<食べること>の議論と接続する予定。 ■参考文献 フォイエルバッハ[著]、松村一人[訳], 和田楽[訳]、『将来の哲学の根本命題―他2篇』、岩波書店、1967年 亀山純生、「風土保全の現代的意義――-倫理学から」、小見山章監修『森の国の風土論』、(有)地域自然科学研究所、2010年、18-43頁
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※主要哲学者について、簡単にまとめてあるページがあるとwikiも使いやすいかもしれないですね。全部を網羅するのは無理なので、亀山ゼミに関係する学者の、ゼミを進めていく上で最低限あったほうがいい知識が簡単に書いてあると、議論も活発になるんじゃないでしょうか。--というコメントのもとで作られた、一覧。 とりあえず、『環境思想キーワード』から人名だけごっそりと持ってきました。 自分の研究とかかわっている思想家がいましたら、どんどんページを作っていってくれると嬉しいです。 アリストテレス 安藤昌益 今西錦司 イヴァン・イリイチ(Ivan Illich, 1926-2002 オーストリア) エマソン カーソン カント キャリコット 熊沢蕃山 ゲーテ コモナー ゴルツ シヴァ シューマッハー シュレーダー=フレチェット シンガー ストーン スピノザ ソロー ダーウィン 田中正造 デカルト デモクリトス ドブソン ナッシュ ネス ハイデガー パスモア ハックスリ ピンショー フォイエルバッハ ブクチン プラトン ヘーゲル ベーコン ヘッケル ベンタム ポランニー マーチャント マルクス マルサス 南方熊楠 宮沢賢治 ミューア ヨナス リービヒ ルソー レオポルド ロック 和辻哲郎
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亀山研マラソンゼミ 2011/07/31梶原美沙 富士講~俗人の山岳信仰~ 1.昔と現代の比較 ◇神仏分離令と国家神道の台頭 中世的な修験道の富士登山の衰退 →近世的な富士講は教派神道(扶桑教、実行教、丸山教等)として再生 ◇戦後の道路や鉄道など交通機関の発達 富士山周辺地域の観光地化 →レジャーとしての認識の強化 富士スバルラインの開通 →登山における宗教とのかかわりの希薄化 だから平気でごみを捨てられる(?) 2.他の山岳信仰との比較 ◇熊野信仰との比較 修験者(山伏)と先達のちがいを比較検証 →先達は普段はどんな生活を送っていたのか? 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」 →山岳信仰の普遍的文化的価値とは何か? まずは文献を参考にしながら富士講の系譜に沿って全体の流れをつかむ。 元祖長谷川角行 角行直系六世村上光清 三代の孫弟子食行身禄
https://w.atwiki.jp/kameyama2011/pages/293.html
本論文は、環境倫理学における東洋思想の意義付けを行う。注意したいのは、「環境倫理学における東洋思想」という表現が、本論文が、欧米由来の環境倫理学への、東洋思想の移植を企図しているわけではないということである。カプラ(一九七五)や、キャリコットの近著 を始め、主にアメリカで展開した環境倫理学への、東洋思想の移植を試みる比較文化論的な、あるいは文化融合的なアプローチはこれまでも多くなされてきた。だが、本論はそうではない。環境倫理学と、東洋思想は、それぞれに異なる前史を持つ世界観であり、両者それぞれについて、効力を発揮する局面と弊害をもたらす局面とがある。それぞれの世界観の特性は、社会的に必要とされる局面と不可分であり、両者の移植または“良いとこ取り”は、結果として世界観と社会的に必要とされている局面のあいだにシステム的な不適合が生ずる可能性を増す、と本論は見なす 。 本論の企図するのは、もちろん、両者の優劣を論じることはではない(この点は、比較文化論の前提に賛同する)。そうではなく、環境倫理学と東洋思想の特徴の“混合体制”が、逆に社会的な問題から離れ、求心力を失うことを防ぐことにある。 環境倫理学の特徴とは何か。それは五十年代以降のアメリカで大きな政治的発言力を持つ諸々のNGO・NPOに理念を提供することにある。アメリカが環境保護に熱心ではないとされつつも 、いまもなお、世界最大の数と規模の環境NGOを有していることは事実である 。それらの環境主義に環境倫理学は少なからぬ精神的指針、ヴィジョンを与えている。 対置される東洋思想 の特徴とは何か。共通して肯定的に評価されているのは、民衆の日常生活と複雑に関連した民間歴や自然観である 。この点は、アメリカの環境倫理学が近年まで、そしていまもなお主題的に問題化しかねている女性やマイノリティの意見を、環境保護NGOが掬いあげられないという難点を解消しうる。しかし、亀山が指摘するように、環境破壊の社会システム転換の論理を欠いた情緒的な伝統的自然観賛美には、それが免罪符として機能しかねない危険がある。「東洋の伝統的思想は、いかなる意味で、いかなるレベルで、環境思想に意義をもちうるのだろうか。それは環境問題の解決の有効な思想原理にどう寄与しうるのか。そもそも伝統思想の現代的意義を発掘するばあい、方法的になにが必要なのか」[農文協、一九九九、一〇頁]、それらの問いは掘り下げられる必要がある。 環境倫理学における東洋思想の意義付けを考えるうえで、閑却することのできない問いがある。つまり、「倫理学・思想系の議論は、環境保護の現場にどのように役立つのか?」という問いである。本論文は、環境倫理学に応答が期待されている問いも扱わねばならない。 しかし、環境倫理学は、環境社会学のように、フィールドワークを行い、現実の具体的なケースに寄り添って現象を理解し、それに対する具体的な解決策を提示できるものではない 。必然的に、理論的展望に重点が置かれることとなる。だが、七十年代以降およそ三十年間、人間中心主義/人間非中心主義、道具的価値/内在的価値という二項対立の際限のない論争が行われてきたことを顧みたとき、その理論的展望と展望に基づく視座の提供が、環境保護の現場でどのような効果をもたらしうるかを熟慮する必要がある。つまり、問題解決に必要なだけの最小限綱領を準備すること 。その綱領の達成が何を意味することになるかを提示すること。失敗した場合、どのようなリスクが考えられるかを想定すること。この三つを念頭におく必要がある。環境倫理学における東洋思想の意義付けも、この範囲でなされる。 本論を通じて最小限綱領とされる事柄、それは〈想像的なものとしての全体性〉の再構成である。それは後述する「再帰性」の過剰によって今日、急速に失われつつある。〈想像的なものとしての全体性〉とは何か。それは眼下のあらゆるものの総和ではない。私たちは全体として了解されている世界の、ある一部分に住む。そして全体として了解されている世界のある一部分から集められた諸々の物、経験、感覚をもとに、私たちは思考し、予測し、表現するわけだが、そこで前提とされている全体とは、無根拠なものである。私たちは、明日も明後日も世界は安定しており自分は同じように元気だろうと漠然と信じている。しかし、地震や交通事故の例を出すまでもなくそれは幻想である。いつどこで死や災害、世界の崩壊が襲うかもしれないという恐れが常態化した病態が、統合失調症者やパラノイアである。幻想の中にいるのは統合失調症者ではなく、破滅は来ないと信じている能天気な私たちである。そしてこの幻想こそが〈想像的なものとしての全体性〉の機能・効果であり、私たちが他者や世界に働きかけること支えとなる 。 なぜ、〈想像的なものとしての全体性〉の再構成が最小限綱領として求められるのか。以下の三点にまとめられる。 Ⅰ まず、人間の創造性は、市場原理では測定しきれない、計量不能な、他者や世界への憧れ、自らを転成transformさせるという、人間固有の欲望に基づく 。この欲望に注目するのが、アメリカの環境プラグマティスト、ブライアン・ノートンである。ノートン(1984)は、従来の環境主義の人間非中心主義を、その人間中心主義との対立において不毛なものとして退け、人間中心主義を一定の経験への「選好(preference)」にもとづく「弱い人間中心主義(weak anthropocentrism)」へと修正する。弱い人間中心主義についてノートン(1987)は、二つの異なる選好で整理する。「感取される(felt) 選好」と、「考慮された(considered)感取される選好」である。感取される選好の基準となるのは需要価値であり、私は何が好ましく、何が好ましくないかを知っており、それを単純に満足させようとする。しかし、「考慮」は、私がそもそも何を好ましいとしているかを吟味し変更させる。この「考慮」の機械を提供する対象に、ノートンは「転成的価値」を見出す。そして、熱帯雨林などの豊富な生物多様性を有する土地に、この転成的価値があるとし、種の保護の根拠を提起しようと試みる 。 この転成は、シミュレーションを前提としつつ、そこから跳躍する行為が求められる 。つまり、転成とは、すでに行為者が採用している価値基準の枠そのものが変容するため、予めコントロールを意識することができず、計算や予測、制御は不確実なものとなる。それにもかかわらず計算可能性を超えた判断や行為が要請されたとき、人は無意識的なものに照準した、文化―風土に基づき 、自らの本態的な脆弱性を分析し、記述し、共有していく。 ここで、「再帰性(reflexivity)」 について付言したい。イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの言葉で、自分自身を意識的に対象化し、メタレベルから反省的視点に立って自己を再織築していく能力を指す。現在の社会では、多くのことを自ら決定しコントロールする必要があり、再帰性は高まっている 。その一方で、再帰的な能力は人々の間で差があり、これが構造的に固定化されることで格差を生む。また、再帰化が形式合理性の側面でのみなされると、「社会のマクドナルド化」 と呼ばれる現象が生じる。つまり、全体的な「実質合理性」が、局所的な「形式合理性」によって破壊される 。例えば、官僚制度は機能分化という形式合理性によって、専門性や生産性を高めることが期待された。しかし、その一方で、官僚制は硬直化するとセクショナリズムなどの悪弊を生み、実質合理性を侵食する(これはヴェーバー自身も「合理性の非合理性」と呼び、問題としている)。ここで論じられているのは、再帰性の質であり、再帰化がすべての人にとって十全に存在するものではなく、むしろ多くの不十分な再帰化を生み出していることが問題となっている点である。さらにいえば、形式合理的な「再帰性」だけで社会を設計し、考えようとするときの困難である。 それでは、なぜ形式合理的な「再帰性」だけで社会を設計しようとしたとき、「マクドナルド化」は起こるのか。それは、人は、生まれたときから再帰的主体なわけではないからだ。再帰的主体の形成には、一定の教育や文化、訓練が必要となる。しかし、再帰性を評価する議論や論理は、人間が再帰性をもつこと、つまり人間が合理性や論理性、高度な知的レベルをもつことを前提に形成されている。そして、再帰的主体の形成の過程は再帰的ではない。その過程は、〈想像的なものとしての全体性〉という他者や社会をベースにした原理に依拠している。 再帰性を提起したギデンズ自身、再帰的主体を支えるものとして、「存在論的安心(ontological security)」 という、再帰性と相容れない再帰性の外部にある概念を精神分析理論から導入している。また、「コミュニケーションの再帰性」を評価し、それによる社会を構想するドイツの社会学者ハーバーマスも、コミュニケーションは権力によって動かされたり支えられたりするのではなく、コミュニケーションの内部でコミュニケーションの正当性が承認され、互いの合意が成立すべきであると、コミュニケーションにおける再帰性を重要視する。しかしその一方で、行為内部で正当性を承認し合うとするコミュニケーションの根幹には相手への「信頼」という変数を導入している。「信頼」は、コミュニケーションの内部で互いに認め合う再帰的な行為の対象ではなく、ギデンズの「存在論的安心」と同様に前提とされている 。 この「存在論的安心」や「信頼」のような、再帰的ではない再帰的主体の形成の過程を支える〈想像的なものとしての全体性〉を、環境倫理学を領域とする本論では「風土」として位置づける。ハーバーマスの対話倫理を基礎づけとする環境倫理学を構想する亀山(二〇〇五、一五五頁)は、その根源的な規範を「I.地域の自然との関係において風土が確保されていなければならない」と述べる。この規範は「風土の三契機」 に従って三つの規範として以下のように、具体化される。 I―1.地域の自然において生活的自然としての性格と質が確保されていなければならない。 I―2.地域社会・人々の自然との関わりにおける共同性・共同関係が確保されていなければならない。 I―3.地域の自然と人々との関係において、一体性と身体的関わりが確保されていなければならない。 これらの規範は、社会生活やコミュニケーションそのものを支える「存在論的安心」や「信頼」をもつことを生得的なものとしたり、議論の前提にしたりはできないという現状と呼応しており(統合失調症者の危機を私たちも共有し、同じ地平に立ちつつある)、それらを社会的に構成されるべきものとして考察し、自然物との関係性を含んで構想する必要に裏付けられている。 それでは「風土」とは何か。「風土」は、〈想像的なものとしての全体性〉、転成的価値、および再帰性と、どのように関連するのか。まず、〈想像的なものとしての全体性〉に関しては、亀山は、風土を人間存在のあり方と位置づける和辻哲郎の風土論を基本的に継承している。この和辻の風土論の理論的背景にハイデッガーMartin Heideggerが『存在と時間』(一九二七年)で展開した「道具(Zeug)」概念があることを確認する。そして亀山が「風土の三契機」として述べるものの一つ、「自然・人間の身体的関わり」のうちの「技術的関わり」とハイデッガーの「道具連関」および「適所性(Bewandtnis)」の概念を軸に整理する。 Ⅱ 次に、転成的価値について。農林水産省が行った都市住民への調査によると、七割が今後農村を訪れて過ごすことに興味があり、訪問回数が多いほど、農村に対する興味や今後の訪問意向がある傾向があることが明らかとなった 。このことから、原生的自然などの“一次的自然”だけでなく、里山・田畑などの“二次自然”、人為的に造成された植物園・自然公園などの“人工的自然”などにも同様の転成的価値があると見なすのは早計であるが、風土論における自然とは生活的自然であり、身体的活動の日常的対象としての人間以外の自然物の総体であり、その中心をなすのは地表の生物と生態系システムであるということをふまえると、ノートンの理路の射程の拡大・調整が求められる。【検討中 太田(二〇一一)を参考にしつつ】 Ⅲ そして再帰性。亀山(一九八九)は、近代合理主義の原型をあたえたデカルトの合理論を「試し」 の過程として扱っている。『情念論』で行われるこのような考察は、デカルト自身の生の経験による「試し」の実践であると、亀山はみる。つまり、日常的生の経験を通して自己を「試す」こと。その「試し」における出来事との出会いを通じて自己(の価値観、行動原理、判断力、知恵)を吟味すること。その吟味を通じて自己を知り、形成すること。その吟味の方法として、「方法的懐疑」――「懐疑のための懐疑ではなく、自己の生に責任をもつにたえうる自身の基準・原理を見いだすための懐疑」(一九八九、七五頁)を亀山はデカルトの遺作『情念論』のうちに見出す。この生の経験による「試し」の行為と思索とは、風土論に至るまで、方法態度として一貫して採用されている。新しく試みようと思っている者、〈試す主体〉には、他者や世界への信頼、「風土」が不可欠なのである。この「試し」を、実践的合理を目指す再帰性と関連付ける。 〈想像的なものとしての全体性〉の再構成の達成と、その維持は何を意味するのか。先述した〈試す主体〉の育成である。この問いに有効な視角を提供するのが、東洋思想である。〈想像的なものとしての全体性〉は、言語と知性のもっとも生産的な機能としての「勘」、もしくは先験的確信とも呼びうる、まだ起こっていないことに関することの予見、何が自分にとって価値あることなのかの確信を可能にする。とりわけ、環境問題のようにシンプルな解決が難しい領域、いままで試されたことのない事柄を試す問題に際しては、「勘」という働きの考察が不可欠である。「勘」および先駆的確信の醸成が、人が持つ固有性や多様性の蓄積と、他者との交流によっていることを確認する 。 ■参考文献(一部) アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か』而立書房、一九九三 尾関周二『言語的コミュニケーションと労働の弁証法―現代社会と人間の理解のために』大月書店、二〇〇二 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか』光文社、二〇〇七 木村敏『あいだ』弘文堂、一九八八 ジョセフ・スティグリッツ『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』徳間書店、二〇〇二 高橋美貴「環境史研究の課題と共生論」『共生社会システム学序説―持続可能な社会へのビジョン』青木書店、二〇〇七 中野敏男「合理化」『岩波 哲学・思想事典』岩波書店、一九八八 マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店、一九八九 和辻哲郎『和辻哲郎全集 日本古代文化,埋もれた日本』〈三〉岩波書店、
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マラソンゼミの発表「身体としての人間の”健康”と自然」で挙がった論点まとめ ウェルビカミングについて 「自己回復の循環生成」と「活力の循環生成」とは身体的な循環という意味で同じではないか。どうちがうのか。 →森下さんのいう「自己」とは何か →「活力」が要素的で「自己回復」が全体的?(亀山先生) 「身体の活性化」仮説について 「身体の活性化」は結構だが、現実には楽で便利な(いわば「身体的に不活性」な)生活を好み満足している人も多い。なぜ人は「不活性」な生活の方に惹かれるのか?(仮定②) →「自己回復の循環」が全体的なものだとすれば、「身体の不活性」は「私の身体」そのものの危機、ということになる? 「身体の活性化」の方法について、自然はone of themか?(仮定③) →自然との身体的関わりを敢えて強調するのはなぜか?(そこにある生命とのかかわり) →仮想現実が現実と変わらないほどに発達したら? その他 「身体的関わり」にも様々な程度がある。その区分けの必要があるか? ◎ほかにも何かあれば、ぜひご意見をお願いします。